筆者の信頼性について

 

「誰が言おうが1+1=2だけど

そうじゃないのかもしれない」

 

最近、しばらく会っていなかった友人の極端な偏見・差別発言であるとか

陰謀論を信じている親族とか

地球平面説を世間話にぶっこんでくるバーテンダーなどに遭遇し

「主張の信頼性」というものについて考えていました。

 

「確かにそれっぽい根拠やソースがあったりはするものの、

なぜ一見マトモそうな人物がコンナモノを信じるようになるのか?」

 

読もうとする本についても、著者の経歴や、その人がどこかほかで書いた文章についても目を光らせるようになりました。

 

■自分を振り返ってみて

そういえばBlogを書くのに、自分は社会的に立派な経歴を持っているわけではない。

普段人よりも本は読むし学術研究についても好奇心旺盛に調べたりするほうだけれど、

よく話す身近な友達から見たらともかく、自分のことを知らない人からしたら

情報発信者としては信頼性があるとは言い難い。

どうしようか。

とりあえず、ある程度まともな文章が書けるということから示してみよう。

ということで、この記事が生まれました。

つまらなかったらスイマセン。

 

■主張の信頼性と事実について

 

昔自分の親と口論をしたときに、親の考え方を確認するために挑発的な質問をしたことがある。

それはおおよそこのような内容だった。

「囚人が檻の中から看守に向かって(1+1=2だ)と主張しても、看守がそれを認めなければ(1+1=2)ではないと言うのか?誰が言ったかどうかが事実であるかどうかと関係があるのか?」

この問いに対して、親は(口論で興奮していたというのはあるにしろ)「その通りだ。看守の言う事が絶対だ。」と答えた。

 

口論自体の実際の内容はわすれてしまったが、自分が上記の質問をしたのは以下のような理由だった。

口論の中で、明らかに自分(子)が言ったことが社会通念的にも正しく、筋が通っていると思われたにも関わらず、親が自分をいわば権威で、ただ親として子どもを従わせようとしていた。

これに反抗して、「この質問の例(1+1=2)であれば囚人が正しい」と認めさせようとしての質問だった。

しかし親はこの理屈に屈しなかった。

そのときの自分は(中学生か高校生だったと思う)「コイツはなんて権威主義的なんだ!」と憤慨した。

自分の親がそんな考えを持っている人間だとは思わなかった。

間違いなく「事実であるかどうかと、誰が言ったかどうかは関係がない」その頃自分はそう考えていた。

 

しかし最近、思っているよりもこの問題は深刻なのではないかと思えてきた。

ある主張を誰が言っているかというのは、確かに「その言及内容と事実が一致しているかどうか」とは関係がないと思う。

たまたまだろうと根拠があろうと「一致しているかどうか」は調べればわかることも多い。

※どうやったら調べられるのか想像もつかないこともある。

 

ではその関係はないとして。

たとえば「その主張が事実として認められるかどうか」とは関係がないのか?

また「その主張が根拠のある主張として認められるかどうか」とは関係がないのか?

これらは似ているようで、それぞれ別の問題だ。(一致判断・事実認定・主張に関する根拠の認定)

そして、この「認める」のは誰なのか?誰ならいいのか?

 

ガリレオ・ガリレイが「このような私の行った研究の結果、地球は回っている」と言うのと、

「私の守護霊が夢の中で私にそう告げたから、地球は回っている」と、天文学(や関連のある学問)を一切勉強したことのない、ただただ独自の信仰に対して熱心な人間が言うのでは主張の内容が違う。

※付言しておくと、ガリレオはデータ提出と共にそれを言うだろうが、信仰の人が提出できる客観的なデータは無いだろう。※

もしこの上記の例に関して「言及が事実と一致しているかどうか」という点は一緒(=どちらも一致している)だとしても、

根拠のある主張と信頼性のない論拠に基づく主張は同じではない。

「提出された根拠が根拠として不足しているかどうか判断するのは誰なのか」

「信頼性の有無は誰(誰達)が判断するのか」

そういったメタ的な情報も、主張の信頼性を構成する要素に含まれる。

※現代ではこの「信頼性を構築できる」と言えるのは、素朴に考えるなら「日本の中においては、どの共同体の中でも学術界である」といえるのではないか。※

 

そして、「その主張の信頼性を構成できるデータの範囲」は主張の種類に応じても変わる。

天文学に関する主張と、生物学に関する主張では、それぞれ主張の信頼性に必要な人は同じではない。

天文学に関する主張の裏付けには天文学者達と、それに関連する分野の科学者達が必要であり、学者なら誰でもいいというわけではない。

いくら高学歴でも優秀でもIQが高くても、ただの医者や大統領、弁護士ではだめだ。

生物学に関する主張でも同様に、天文学者はお呼びでない。

 

主張を怪しまれる人というのは、たとえ正しいことを述べるときでも、誰かに補強してもらう必要がある。

(論文や本を書いたなど)公開した研究実績のある研究者は、それに対する同業者たちの評価を通じて、研究者・専門家としての信頼性を補強されたり疑われたりする。

(しかしもちろん、二足のわらじで天文学者としてはちょっと微妙でも、生物学者としては一流という人も存在するのでさらに問題は複雑になる)

そういった「主張を精査する仕組みが機能していること」が主張にとって大事なのだ。

そうでない環境では、正しい事実を述べるということがまず難しい。

主張を事実と見なす(つまり人たちが認める)ための環境が必要なのだ。

そういう環境は、ある分野ではまったくないか、あっても発展途上であったりする。

日常の中で、精査環境の構築されていない領域について話すとき、それに気づかず自分の意見を述べることは多々あると思う。

しかも「ある科学者によるとこうらしい」などと、聞きかじりのテレビ番組やろくに読んでもいないネット記事の見出しから、あたかも事実を述べているんだといわんばかりの口ぶりで。

情報を交換するのは必要だし、おもしろいことだ。

だけど、自分の日々の考えや、日々摂取する情報、誰かの意見を簡単に否定した自分の理由が、果たしてどれだけ信頼性に値するものなのか。

インターネットやAI技術で、知りたい情報を探すのは簡単で便利になったけれど、たくさん摂取すればいいというわけではない。

いまよりもっと気を配っていないと、いつの間にか確率に左右され怪しい情報ばかりを積み重ねて、偏った意見を持つことになっても、誰かに騙されたり利用されたりしても、自分のせいだとしか言えない時がくるのかもしれない。

 

 

、、、ここに書かれたことは筋が通っていてマトモだと思うが、あなたはどう判断するだろうか?

このBlogに書かれていることの信頼性は、誰かが補強してくれる必要がある。

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